※参加団体(2007年10月19日現在)KOREAこどもキャンペーン、アーユス仏教国際協力ネットワーク、地球の木、日本国際ボランティアセンター、在日コリアン青年連合 、在日本韓国YMCA、北朝鮮人道支援の会、日本キリスト教協議会、ピースボート、日本医療救援機構(MeRU)
8月の調査で、被災地では医療品が不足しているとの話を聞き、医療支援に的を絞って現地と連絡を取り合いました。その結果、現地の医療施設の要望を聞き入れて、総合栄養剤(点滴用)・抗生物質製剤・胃腸薬・栄養ビスケットなど約200万円相当を現地で購入し、日本からは、抗生物質製剤・携帯用の高性能浄水器2台(約80万円)を持参しました。
支援先は、こどもキャンペーンが支援のため何度も訪れている東海岸・江原道(カンウォンド)です。
今回の水害でも深刻な被害を受け、死傷者の大半を占めました。医薬品を届けるために、江原道安邊郡(アンビョン)の里(リ。道―郡―里に分けられた行政区分の一つ)人民病院のほか、江原道人民病院、江原道育児院を訪問しました。
江原道人民病院は、道の中で最も大きな病院で、郡や里の病院では手におえない重症患者が運ばれてくるほか、医師の派遣もおこなっています。今回の水害でも、最も被害の大きかった淮陽(フェヤン)、金剛(クムガン)、昌道(チャンド)、利川(イチョン)などの被災地に医師団を派遣し、1ヵ月以上にわたって診療にあたったそうです。水害後2ヶ月が過ぎた今も、大怪我を負ったり精神的にダメージを受けた被災者が入院していました。(写真は被災者の体験を話す患者さん)
この病院には、呼吸器関係の患者、そして消化器系の患者(下痢)が多いということで、医師は「口から食物を摂取できない患者には栄養剤がたいへんありがたい」と話していました。また、地方に緊急診療に出かける際には、携帯用の浄水器がたいへん役に立つとのことでした。これまで食糧支援などで何度も訪れている江原道育児院(親が亡くなったり、育てる人がいない子どもたちを預かっている孤児院。240名のこどもたちが生活している)では、今夏の水害で、28名のこどもたちを引き取ったそうです。部屋にはこどもたちがぎっしり並んで寝ていました。(左下の写真は支援の医薬品を前にした医師たち )
この育児院には、マルチビタミンビスケットを約55箱届けました。朝鮮赤十字会の李虎林部長は「冬に向けて住宅建設が欠かせないが資材が十分ではなく、収穫の時期と重なって労働力も不足している。また、農地は大雨の被害があったばかりでなく、低温などにも悩まされたため農作物の収量不足が憂慮される。今後最優先となるのは、特に食料と医薬品ではないか」と言います。WFP(世界食糧計画)やUNICEFなどの国連機関、ヨーロッパのNGOによる支援は継続されていますが、春先の食糧事情にも気を配っていきたいところです。
今回は医薬品の支援ということもあり、日本から持参した支援物資の使用方法などについて、正しく使ってもらえるかどうか少し心配していました。しかし、元山の医師が浄水器の説明文を見て「日本語が少しわかりますから、大丈夫です」と話してくれたので、とても安心すると同時に、改めて、日本と朝鮮の地理的な<近さ>」、歴史的な関わりの<深さ>を強く感じました。(写真右は ビスケットを手に取る育児院の職員)
日本政府は、この水害に対して、当初、人道支援の可能性に言及したものの、すぐに立ち消えとなりました。そしてその後、経済制裁の延長に踏み切りました。現地の人々はこのような日朝関係の悪化を憂慮しつつも、「日本の市民からの支援に対して、心から感謝している」と話してくれました。政府支援と比べて、その規模は比べ様もありませんが、今回、日本の市民からの「心」のこもった支援を直接現地に届けたことは、大きな意味があったと思います。日朝関係改善への道のりは、まだまだ予断を許さない状況ですが、これからも両国の市民と市民をつなぎながら、この地域の平和と友好に寄与していきたいと思います。 皆さまの暖かいご支援に心より感謝申し上げます。
「2008年を日本のアドボカシー元年とできるように、皆様のお力をお借りしたい」と2008年G8サミットNGOフォーラム(以下NGOフォーラム)の星野昌子代表は200名をこえる聴衆に強く訴えた。10月14日(日)、東京都港区田町の「女性と仕事の未来館」にて、「2008年G8サミットに向けて日本の市民社会ができること」と題して国際会議&シンポジウムが開催された。国際交流基金の助成を受けて、NG0フォーラムと、(特活)国際協力NGOセンターの共催で開催。2007年1月31日に発足したNGOフォーラムの第2期開始を記念したイベントでもある。
NGOフォーラムは、貧困・開発、環境、人権・平和など地球規模の課題に取り組んでいるNGOが分野をこえて連携し、2008年に北海道の洞爺湖で開催予定のG8サミットに向けて活動している。第1期には101団体のNGOが参加し、現在は第2期参加団体の受付中である(10月26日現在94団体が登録)。
10月14日のイベントでは、NGOフォーラムが提言としてまとめたポジション・ペーパーを発表し、アジア及びアフリカから招いたゲストや一般参加者と共に議論した。ポジション・ペーパーは「貧困・開発」「環境」「人権・平和」の3つのユニットがそれぞれ作成。また『G8北海道・洞爺湖サミットを持続可能な世界をつくりだすための「航海」の出発点に』と題した宣言文、及び「市民に開かれたG8サミットの開催を求めます」と題した提言書も配布した。発表したポジション・ペーパーはドラフトであり、来年3月ごろには内容の絞込みを行った完成版を作成する予定である。ケニアからのゲストのンジェリ氏(国連環境計画ーUNEP)からは、「NGOの弱点は多くを求めすぎること。いくつかのキーになるエリアを選んで、絞り込んで提言するべき」とのアドバイスをいただいた。
今後のNGOフォーラムの提言活動は、それぞれのイシューにどのように優先順位をつけ、効果的に訴えていくかが課題だ。気候変動は来年のサミットの重要なアジェンダとなるであろう。一方で「アフリカの貧困問題などが気候変動の陰に隠れてしまうのでは」という懸念もある。さらに人権・平和の問題は、過去のG8サミットを見てもアジェンダにあがりにくい。しかしながら、気候変動を含めた環境問題や、貧困・開発問題、人権・平和の問題が、密接に関連していることは、10月14日のイベントでも度々指摘された。セネガルからのゲストのパパ氏(ENDA)は、気候変動は旱魃や洪水、飢餓人口の増加やマラリアなど感染症の蔓延を引き起こし、アフリカの最も貧しい人たちが非常に大きな影響を受けると訴えた。インドからのゲストのアニル氏(SANSAD)は、「気候変動によって貧困層が大きな影響力を受けることを強く訴えるべき」と述べた。
NGOフォーラムの第2期ではポジション・ペーパーの作成以外にも、次のような活動を予定しており、活動ごとにチームを立ち上げる予定である。第一に、来年4月ごろに開催を予定しているシビルG8(G8サミットは、G8政府関係者のみによる会議だが、シビル=市民に開かれた政府と市民による会議)に向けての準備である。またシビルG8に関連して日本の外務省のシェルパ(サミットの準備プロセスにおいて総理を補佐する、首相の個人代表。G8各国に1名ずつ合計8名)との対話も進めていく必要がある。第二に、サミット開催時に北海道で開催するオルタナティブ・サミット(NGOが主催する市民による「もうひとつのG8サミット」)に向けて、G8サミット市民フォーラム北海道(2008年G8サミットに向けた北海道の市民/NGOによるネットワーク)との連携である。
その他、キャンペーンや各種イベント、広報戦略についても検討するべく会合を重ねている。
G8サミットに向けて日本の市民社会にとって各分野のNGOの「違い」を乗り越えて連携し、「力」に変えていくことは、大きなチャレンジだ。ぜひ今後とも皆様の支援をお願いしたい。
4月25日イラク西部の都市ファルージャの市評議会議長が殺害された。ファルージャの友人によると2004年のファルージャ危機以後に殺害された議会メンバーは5人になる。市評議会は米軍の肝入りで作られた。評議会は反米武装グループから裏切り者と見られて狙われていたと考えられる。米軍の占領下にあるファルージャで人々は米軍からも反米の武装勢力からも狙われる可能性があるので、ひっそりと目立たないように暮らすしかない。
一方バクダッドの治安は2月14に始まった米軍の新治安作戦の効果もなく悪化の一途をたどっている。白血病の子どもの治療にあたっている私たちの協力者の医師からの報告では、医師も患者も病院に来ること自体が危険なため患者の治療は困難を極めているという。2003年のイラク戦争後に殺された医師の数は2000人にも上る。
またバクダッドに住むパレスチナ人の協力者によるとパレスチナ人は度々警察に強制立ち退きをさせられるという。同じ地域に住むイラク人とパレスチナ人との間にも反目が生まれている。IOM(国際移住機構)の調査では2006年2月以降毎日平均1000人が国内避難民になっている。避難する人々の多くはスンニー派とシーア派が混在している地域で両派のうち少数派に当たる住人やスンニーとシーアが結婚した家族である。これまで共存していた人々が共に暮らすことができなくなっている。
2 占領政策が暴力の連鎖を作る
イラクは人道上の危機にある。それはイラクの社会的な分裂の危機でもある。これはイラクの将来にわたって深刻な影響をもたらすであろう。イラクのボスニア化、レバノン化である。なにがこの事態を招いたのか。米国のイラク開戦が問題なのは明らかだが、この危機を招いた直接の原因は占領政策にある。まず占領当局が政府や公職からフセイン政権のバース党を排除したことが上げられる。次に内務省を牛耳ったシーア派政党の民兵が大量に警察に流れ込みスンニー派狩りをすることを米軍が見て見ぬふりをしたことがある。国づくりの最初に政治的な対立の構造が作られ、政治的な対立が暴力の連鎖となって人々を引き裂いた。
3 イラクと私たち 私たちの政府はイラク戦争を始めたアメリカを支持し、その占領政策の一翼を担うために自衛隊を派遣した。そしてイラク政策の検証もないまま航空自衛隊の派遣をまた延長しようとしている。イラクで起きていることは日本人にとっては遠い国での出来事である。しかし毎日命の危険にさらされながら生きているイラクの人たちの運命は実は他人事ではない。戦争と占領政策に加担してしまった政府をもつ私たちはすでにイラク問題の当事者になってしまっている。
また日本はイラクからの石油に依存し、北朝鮮から守ってもらうためにアメリカの「核の傘」に依存している、という論理でアメリカのイラク政策に追従することが日本の利益であるという主張が幅を利かせている。日本人の利益のためにイラクの人たちが犠牲になっても仕方がないという議論が成り立って
しまうほど、実は私たちの生活はイラクの人たちの運命と不幸な形で結び付けられてしまっているのである。そこに私たちのイラク問題におけるもうひとつの当事者性がある。
人間の運命と世界は様々な原因と状況によって互いに関系し合っている。原因と結果がどのように関係し、私たち一人ひとりがその関係性にどのように結び付けられているかを見抜くことが当事者性の自覚につながる。この当事者性の自覚こそが市民の智慧だということができる。この智慧があって初めて当事者として状況を変えていくために何をしたらいいかという促しが生まれる。JVCはイラク戦争の前からイラクでの支援活動を続けている。白血病の子どもたちを支援するためにJIM-Netという医療支援のNGOを作り毎月薬をイラクに届けている。さらに現場を支援するNGOの視点から政府のイラク政策に対して様々な提言活動を行っている。市民が作るNGOの基本は当事者性である。イラクの人たちの運命を自分の運命に重ねて具体的に関わること、コミットメントすること。それは私たち自身の自由を獲得するためのコミットメントでもある。
日本はイラクの石油を確保するためにアメリカを支持したという人間もいれば、北朝鮮から守ってもらうためにアメリカについていったという人間もいる。どちらも私たちの政府はイラクの人のためではなく、日本の利益のためにはイラク人を犠牲にしてもいいといっているのである。
5月29日、日本国際ボランティアセンター(JVC)は今回の地震を受け緊急救援の検討を始めた。あちらこちらの情報を手繰り寄せた結果、今回、協力に当たったのは、JVCと同じ台東区に居を構えるAPEXというNGOだ。APEXはこれまでジョグジャカルタを中心に、排水処理やバイオマスなど環境保全の分野で活動を行なってきた。APEXと協議し、これまでAPEXが活動を共にしてきたインドネシア現地のディアン・デサ財団の活動を側面支援するという形が整った。JVCは、当初から九月までの約4ヶ月間という支援活動を想定した。短期間ではあるが、効果的な支援を展開することが求められた。
6月13日、被害の様子をこの目で見て、支援の今後を展望するために現地を訪れた。初めてのインドネシア訪問とあって、私は少し緊張しながら現地に赴いた。ジャワ島中部の中心都市であるジョグジャカルタ市に到着したが、立ち並ぶホテルやビルからはそれほど目立った被害は見受けられず、日常の空気が漂っていた。しかし、ジョグジャカルタ市内から20分ほど国道沿いに車を走らせ、少し細くなる道に入ると様相は一変した。道沿いのほとんどの家々は完全に崩れており、瓦礫があちらこちらに広がっている光景が目に飛び込んできた。ふと、パキスタン大地震での被災地の様子が脳裏を過った。2005年10月8日に起きたパキスタン大地震の被災地は、冬を目の前に既にひんやりと冷え込み、屋外で身を寄せ合う家族で溢れていた。彼らから注がれる無言の視線が痛かった。
ここインドネシアでも同じような視線を浴びるかと内心肝を冷やした。だが、それも杞憂に終わった。村の中から人々の声がそこかしこで聞こえてきたからだ。子どもたちが瓦礫の中で思い思いに遊ぶ声に溢れ、大人たちも互いに声を掛け合いながら瓦礫を一つ一つ手作業で撤去していた。ゴトンロヨンと呼ばれる村の助け合いの精神がここに生きていた。
さて、JVCの今回の支援活動は、大きく緊急支援と復興支援に分けられる。緊急支援では、5月29日から6月6日までの間に計82村、約2万世帯に対して食料・テント・医薬品などの緊急救援を行なった。復興支援では、ディアン・デサ財団やAPEXの専門性を活かし、井戸の修復やトイレ・水浴び場・洗濯場が一緒になった仮設の建屋(衛生施設)を設置していった。こうした作業では、すべて村人自ら手を動かしながら自分たちの井戸を修理し、また自分たちの衛生施設を作ってもらうことにしている。また、作業に参加した人には労賃(日当約180円)を支払うようにしている。一時的に職を失った人々へ、わずかではあるが経済的なサポートをはかるためだ。そして、何よりもこうした手作業を通じて、復興にかける村人の自信を取り戻すことも一つのねらいにした。
私は、9月にもう一度支援の現場を訪問する機会に恵まれた。一面に広がっていた瓦礫は一通り片付けられていた。しかし、住宅の再建には手が着いていなかった。住宅再建に思いのほか時間がかかっていることにもどかしさを感じながらも、私たちの支援活動は地道に村の生活環境を支えていた。バントゥル県に住むサムシッラさんは、清掃された井戸を前にこう話してくれた。「一週間前にやっと井戸がきれいになったの。それまでは、ご近所の井戸を使わせてもらっていたから何だか悪くって。今は自宅のすぐ前に出来たからずいぶん楽になったわ。まだ、ご近所の井戸を使っている家族も少なくないと思う。近くの人が借りに来た時には喜んで貸してあげる。私も一週間前まではそんな一人だったから。あとは自分の家が元通りになればいい。家族が一緒に住める家が早く欲しい」9月15日の時点の数字だが、JVCとAPEXによる支援によって、衛生施設163棟、井戸の修理442本を終えた。
10月4日、ようやくインドネシア政府から住宅復興資金の支援が始まったとのニュースを聞いた。これから人々は自分たちの家を再建し復興への道を本格的に歩んでいく。JC/APEX/ディアン・デサ財団による支援活動は、本格的な復興に向けての足がかりを作って来られたのかな、と、サムシッラさんの顔を思い浮かべながら私はこのニュースを聞いた。
私たちが活動しているリンポポ州ベンベ郡マカド地区23ヶ村にも、約七百名の遺児がいます。その内の約百名は子どもたちだけで生活をしています。働き盛りの親を亡くした子どもたちは、収入源を失い、制服代もわずかな学費も払えなくなり学校に通えなくなった子どもたちもいます。また、食料を買うお金もなく、NGOからの食料配給に頼らざるを得なくなったりします。わずかな財産を、親戚に取り上げられてしまう子どももいます。多くの子どもはおばあさんを頼りに生活をしていますが、わずかな年金に頼って生活しているおばあさんにとって2人も3人もの孫の面倒を見ることは容易いことではありません。誰も頼る人がいない子どもは里親に引き取ってもらうこともあります。このように、HIV/AIDSは個々の家庭だけでなく、コミュニティ、そして次世代に大きな影響を及ぼしているのです。
現在、シェアと日本国際ボランティアセンターが現地NGOと共同で行っているプロジェクトでは、慢性疾患患者も含むHIV陽性者・エイズ患者への在宅ケアの提供、若者への感染予防啓発、HIV陽性者の自助グループ支援、そしてエイズ遺児への支援を実施しています。エイズ遺児支援は具体的に、各村で活動しているボランティアたちを通して、日頃から家庭や学校で問題を抱えていないか家庭訪問を実施し、学費が払えなく学校に行なくなった子どもがいれば復学できるように校長先生にかけあったり手続きを手伝ったり、出生証明書などがない子どもたちには発行手続きを手伝い、そして食べ物がない子どもちには食料を配給すると同時に家庭菜園のつくり方を指導しています。また、親を失った悲しみを乗り越えられずにいる子どもへのカウンセリングやレクリエーション活動、またキャンプなども実施しています。(写真は元気な頃のプリビレッジ君 ©日本国際ボランティアセンター)私自身、この一年間、たくさんの素敵な出会いもありましたが、たくさんの友人をエイズで失いました。これまで流したことがないくらい、たくさんの涙を流しました。その中でも一番印象に残っているのが十二歳という若さで亡くなったプリビリッジ君です。昨年八月に彼に会ったときには、親をエイズで亡くしたばかりでなく、彼自身すでに結核にかかりエイズを発症していました。栄養のあるものをしっかりと食べ、きちんと薬を飲むことが結核患者にとってとても大事なことであるのに、一緒に暮らしていた叔母さんはまったく面倒を見ず、彼はお茶だけで一日を過ごすこともあり、彼はみるみるうちにやせ細り、10月27日に短い生涯を終えました。 親を亡くした子どもたちの環境はひとりひとり異なります。700人いれば、700人それぞれの状況が異なります。そのひとりひとりへの対応は決して簡単な作業ではありません。でも私たちは、子どもたちが子どもらしく伸び伸びと育っていくために、親を亡くした悲しみを乗り越えてたくましく育っていくために、エイズという脅威に負けないで強く生きていくために、これからもエイズで親を亡くした子どもたちへの支援を続けています。
スマトラ沖地震による津波がおきて既に一年が経ちました。まさかタイで地震、そして津波が起こるなんて、タイをよく知っている人でもそんなことは誰も思っていなかったことでしょう。
津波が起こった直後、シェアはタイ南部で現地調査を実施しました。タイ南部の有名な観光地であるプーケットを中心に、タイ政府は素早く支援を進めていました。その一方でこの地域に住むミャンマー人移住労働者の中には多くの死亡者・行方不明者があり、また津波の大きな被害にあったにも関わらず、タイ、ミャンマー両政府からも支援を受けられていないことがわかりました。元々ゴムのプランテーションや建設現場・漁業に従事していた多くのミャンマー人労働者は津波により住居をなくして移動せざるを得なかったり、仕事を変えなければならなかったりなど、津波被災以前にも増してさらに劣悪な生活環境、衛生状況、労働条件の中で暮らしていました。
シェアはタイ東北部に事務所はあるものの、遠い南部で独自の活動を実施するのは難しいことから、タイ南部で結成されたTAG(Tsunami Action Group‐ミャンマー人移民支援のために4つのNGOにより結成)の加盟NGOであるHERIBを通して、在タイミャンマー人移住労働者への保健教育活動を行うことを決定しました。
HERIBは現在、タイ南部パンガ−県の3村と2島(Kheuk Kak村、Bang Muang村、Ban Sai村、KhoKau Khao島、Kho Lan島)を活動地とし、積極的に四人のミャンマー人保健チームにより、住民主体の保健教育を実施しています。昨年前半の緊急時には食糧や生活物資提供、津波の際に紛失してしまった身元証明書の再発行手続き支援、医療へのアクセス支援を緊急的に実施しました。その後に生活環境改善のため、マラリア予防を中心としたパンフレット配布や情報の提供、蚊帳の提供、マラリア予防薬の散布などの保健活動を実施しました。
昨年11月に私はモニタリングのために、現地を訪問しました。HERIBは学校に通うことの出来ない子ども達のための学習センターにおいて、歯磨きや栄養などについて保健教育を実施し、その後に健康診断を行っていました。中には親を津波で亡くし精神的なサポートを必要としている子どももいました。またどの子ども達も年齢より体が小さく、栄養が十分でない様子でした。
またゴム農園や工事現場での健康教育の場で意見交換も行いました。皆ミャンマーに帰国したいが、タイはミャンマーよりも給料が高いという経済的な理由で、タイで労働せざるを得ないということでした。ゴム農園では、夜にゴムの液を採集するため、雨が降らない日のみ、午後11時くらいから徹夜で昼ごろまで働いている。マラリア蚊はゴムの匂いが好きなので作業中に寄ってくること、また蚊に刺されるのを予防していなかったことから、マラリアにかかる人が非常に多いということでした。
最近は対象者の中からこのような保健活動に興味を持った十名が、ボランティアとして名乗りをあげています。HERIBは彼ら自身が地域のミャンマー人を対象として保健教育を地域で実施できるように、彼らへのトレーニングを開始しました。私が見学したトレーニングのトピックはエイズでした。どこで話を聞いても、エイズは自分たちの問題ではないという答えが返ってきただけに、今後エイズの情報を広めていくことは必要と思われます。
あるボランティアの方は、「HERIBの保健教育チームと一緒に働く事ができてとても幸せだし、誇りに思います。津波を受けた時、目の前が真っ暗になってどん底に落ちてしまったけど、今は、自分のため、そして、友人のために役に立っている、支えている実感があります。」とコメントされています。
津波の被害があるまではHERIBのような活動している団体はほとんどなく、この南部でのミャンマー人の生活の環境や労働状況などは、明らかにされていませんでした。シェアはこのように積極的に活動を進めているHERIBを支援し、HERIBからの報告やシェアが実施するモニタリングを通して、今後も現地の声を日本に伝えていきます。




Vol80 朝鮮民主主義人民共和国水害緊急救援報告